人物紹介|その生き方を知る

石川啄木 1886(明治19)年~1912(明治45)年

岩手県南岩手郡日戸村の日照山常光寺に長男として生まれる。成績優秀で進んだ盛岡尋常中学校で文学に親しみ、この時上級生の金田一京助、及川古志郎、野村胡堂らに見守られて、文学に開眼する。しかし文学活動や、後の妻である堀合節子との恋愛によって学業が疎かになった啄木は、五年生の時に自主退学し、文学の道を目指してすぐに上京する。

上京後、与謝野鉄幹・晶子の指導を受ける。病や困窮の中、19歳で初めての詩集「あこがれ」を刊行し、詩壇にデビューする。そしてこの年節子と結婚。地元の渋民尋常高等小学校の代用教員として熱心な教育にあたり、大胆な教育案を提出、それをストライキで訴えもした。しかし、免職となってしまう。生活の目途が立たず北海道に移住し、新聞記者として函館、札幌、小樽、釧路の新聞社に勤務。釧路新聞社には1908(明治41)年1月から4月まで(22歳の頃)勤務し、評論“雲間寸観”“卓上一枝”などを書く。

1908(明治41)年4月、啄木は再び文学の道を決意し単身上京。歌への想いは衰えることなく、文芸誌「スバル」の編集や執筆など意欲的な創作活動にあたる。やがて、東京朝日新聞の校正係となり、離れていた家族と再び暮らすようになるが、生活の中での苦悶は続く。そんな日々の中から生まれる歌をまとめた歌集「一握の砂」を1910(明治43)年に刊行する。この頃大逆事件に影響を受け、国家や社会への意識が深まっていった。この年10月長男が誕生するもわずか23日で亡くなる。

啄木の健康状態は悪化し、1912(明治45)年4月13日、肺結核により父と妻、若山牧水にみとられ26歳で永眠した。病や生活上の苦悶の多かった短い生涯の中で、鋭い感性で人間の感情を短歌に表した国民的歌人として今なお広く親しまれている。

市立釧路図書館3階郷土行政資料室は石川啄木の関連書籍を多数所蔵・収集しています。郷土行政資料室内でご覧いただけます。本棚にお探しの資料がない場合はスタッフにお問い合わせください。

用語解説

金田一京助
盛岡尋常中学校では啄木の2年先輩で、啄木の中学中退後も仕事の相談や生活費の工面など様々な面で啄木を支えた。のちの言語学者でアイヌ文化研究者。
スバル
「明星」の終刊をうけて創刊。誌名は森鴎外による。北原白秋、高村光太郎、与謝野寛(鉄幹)らが参加。啄木は創刊時発行名義人であり、創刊号には彼の小説「赤痢」が掲載されている。
大逆事件
明治天皇暗殺を企てたとして首謀者とされた幸徳秋水を含む多数の社会主義者、無政府主義者が検挙された事件。

参考文献

  • 北海道文学館編. 石川啄木 貧苦と挫折を越えて. 北海道立文学館, 2006, 64p.
  • 石川啄木. 石川啄木大全. 講談社, 1991, 395p.
  • 遊座昭吾,近藤典彦編, 石川啄木入門. 思文閣出版, 1992, 146p.