人物紹介|その生き方を知る

荒沢勝太郎 1913(大正2)年~1994(平成6)年

1913(大正2)年4月15日、樺太真岡群真岡町で生まれる。1927(昭和2)年14歳のとき、樺太庁真岡中学校(旧制中学校)に入学。その頃より文学に興味を持ち、短歌会に参加する。1932(昭和7)年4月、樺太日日新聞社に入社し、文化部記者を務める。1934(昭和9)年に法政大学に入学するが2年後中退し東京中央情報社の記者となる。翌年樺太日日新聞社に戻り、1939(昭和14)年に退社するまでに『樺太案内地名の旅』等数点を出版した。退社の翌年27歳のときに頃末耶栄子と結婚。半年ほど樺太庁嘱託職員を務めた後、雑誌樺太社に入社し月刊誌「樺太」の編集長を務める。1941(昭和16)年長男俊介が誕生。

1943(昭和18)年9月、30歳のときに海軍に召集されたのち航空隊に転属する。終戦後は復員となるも樺太に戻れず、北海道での生活が始まる。この間妻耶栄子が長女菊を出産するも1歳8ヵ月で死去。1946(昭和21)年6月札幌市で月刊誌「北針」を創刊する。12月には樺太から引揚げてきた家族との再会を果たし、小樽市に居を構える。翌年4月から北海道全市職員組合連合会事務局に嘱託として勤める。札幌群豊平町に移り9月次女百代が誕生。

1949(昭和24)年11月、釧路に本拠を置く東北海道新聞社に入社。報道部長に就任する。翌年3月三女ゆかりが誕生。9月に同社を退社し、釧路商工会議所に入所し釧路青年会議所の設立に携わる。

1958(昭和33)年4月には釧路市役所に奉職。市民課長として広報活動などのほか市民憲章、釧路市の歌の制定、花いっぱい運動などを担当し、様々な分野で活躍する。のちに経済部長や市議会事務局長などに就任する。
写真図鑑がわりに使える野の花をまとめた本をつくろうと、1965(昭和40)年『亜寒帯の花』を出版。シリーズ化し1975(昭和50)年までにⅠ~Ⅴを出版する。1968(昭和43)年に市民文芸「釧路春秋」が創刊されると随筆『湿原の秋』を寄稿、1970(昭和45)年5月にはHBCラジオで放送された短篇をまとめた随筆集『釧路湿原の花』を出版するなど、この時期に荒澤は自然を主題とした文筆活動を積極的に行っている。

こうした活躍から、1972(昭和47)年58歳のときに釧路文学団体協議会長に選任される。7月には釧路市民展運営委員にも選任され、生涯委員を務めた。2年後釧路市土地開発公社理事に就任。翌年の1975(昭和30)年に市役所を定年退職するが、退職後も釧路市視聴覚ライブラリー運営委員や市立釧路図書館協議会委員などを務めるなど市の発展に積極的に関わっていく。

1985(昭和60)年にはこれまでの文筆活動をはじめ釧路市の文化の振興に寄与した功績を認められ、釧路市文化賞(芸術部門)を受賞。1986(昭和61)年から1987(昭和62)年にかけて、同人誌「北海文学」第55号から67号まで13回にわたり連載していた「樺太文学史」を、全四巻にまとめて出版する。1986(昭和61)年8月釧路湿原の花の写真と随筆の集大成「釧路湿原の花」を出版。1993(平成5)年、釧路湿原を中心とした自然保護と啓発活動に対する功績が評価され、北海道新聞文化賞(社会文化賞)を受賞する。

1994(平成6)年4月2日急性心筋梗塞により逝去。享年80歳。樺太への懐郷の想いを抱きながら、その想いとカメラに収めた北の草花たちの魅力を本のみならずテレビやラジオでもその魅力を人々に広めた、北の自然をこよなく愛した文学者であった。

参考文献

  • 佐藤公則編. 釧路春秋. 1993, No.30
  • 渋谷耕而編. 釧路春秋. 1995, No.34
  • 釧路市議会編事務局. 釧路市議会会議録昭和48年第7回10月~第9回12月(合本). 釧路市, 1973