人物紹介|その生き方を知る

土屋祝郎 1908年(明治41)年~1996年(平成8)年

1908年(明治41年)11月27日、秋田県由利郡矢島町城内(ゆりぐんやしままちじょうない)で生まれる。大正5年に母親を亡くし、たくさんの幼児を抱えて困った父親は、引き取り手がない幼い祝郎を禅宗の寺に連れて行った。そこでの生活は休みのない労働であり、ひどい折檻などを受けていた。
13歳の2月、たまりかねた祝郎は大枚20円(当時の米俵一俵分の値段)を盗んで吹雪の中を脱走し、由利郡象潟町(きさかたまち)の蚶満寺(かんまんじ)に行って救われた。そこで本荘中学校に入学、大正13年卒業後、お布施を貯え参考書を買い勉強し、京都第三高等学校(現京都大学)に合格した。同時期、釧路の佐藤弁護士の養子となる。

不安定な社会情勢の中、祝郎は学生運動に飛び込み、第2学年で幹部、第3学年で自ら学生自治会を復活させキャップとなり、『自由の旗』を発刊する。学生自治会から共産青年同盟に加入し、凶作地救援の運動を展開、昭和7年1月逮捕され、同年3月20日に中退することとなる。
その後、拷問で傷ついた身体を療養するため、釧路で1年間を過ごし、上京して全協(日本労働組合全国協議会)の活動に飛び込むも、昭和9年街頭連絡中に売り渡されてしまう。百日たらずの拘留で横浜の警察から釈放され、思想犯保護観察にかけられながらも脱け出しを図り、党の再建を企てる。しかし、人民戦線の全国一斉検挙に連座して、昭和12年12月17日に逮捕される。釧路刑務所において、約5ヵ年(昭和16年5月まで)に及ぶ懲役刑に服し、出所後の同年11年、特高が再び祝郎を召喚、再逮捕となる。予防拘禁所の仮監として使用されていた豊多摩刑務所の未決監に拘禁され、昭和18年末に釈放される。

戦後、昭和20年10月15日、国鉄釧路工機部において従業員組合を結成、11月には太平洋炭鉱労組・庶路炭鉱労組、12月には日甜労組等の労働組合を次々と作る。昭和22年4月5日、釧路市長選に立候補するも当選に至らず、同年4月30日、釧路市議選に立候補、初当選し、以後5期18年市会議員を務めた。その間、昭和24年11月10日釧路市長選に再度立起したが、当選には至らなかった。
昭和44年、幼い頃から酷使してきた肉体が限界にきて、これ以上の活動を許さず議員を辞する。
平成8年3月30日死去。享年87歳であった。

用語解説

『自由の旗』
学生自治会の機関紙
予防拘禁所
予防拘禁法として、刑期満了後も犯罪予防のため治安維持法の規定に違反するおそれのある者に対しては、2年に1度ずつ手続を更新しながら永久に拘禁できるとういう法の下、処せられた者などをとらえてとどめておくところ。

参考文献

  • 土屋祝郎.紅萌ゆる 昭和初年の青春.岩波書店,1978,226p.
  • 土屋祝郎.予防拘禁所.晩聲社,1988,205p.